おばばと暮らせば

瀬戸内海海域の中山間部に住む、90歳のおばばと孫の暮らし。おばばの言葉や思い出が面白すぎたので記録取っていくことにしました。

日常13 どっちもそれは日常で。

 

 

うちの庭には、ブラックベリーという木がある。

実がなると、鳥たちとの取り合いになるので、この時季は朝に実を摘むことから始まる。

 

でも、今日はちょっとだけ忙しなく、だけどちょっとゆったりもしながらベリー摘み。

 

祖母の背中がちょっとだけ、いつもよりも小さく見えちゃって私もそれが参っちゃう。

 

 

 

 

 

※今日はちょっぴり長いです。そして、ちょっぴり悲しい話です。よろしければお付き合いください。

 

 

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ベリーをつむ祖母

 

 

6月3日、祖母の7つ上のお姉さんが亡くなった。

95歳、年明けから少しずつ緩やかに弱っていたそう。最後は老衰で、静かにひとつも苦しまずに。

 

その2日後、一時期預かり我が子のように見ていた甥(私から見たら従叔父)亡くなった。

ガンだったそう。まだ50代だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大伯母(祖母の姉)が亡くなる前日に、大叔母(祖母の妹)がきて、そろそろかもね、なんて話していたから、じゃあ明日か明後日行くかーなんて、のんきに話をしていたその時、電話が鳴った。

 

 

知らせを受けてすぐに向かった。

私にとっては親戚といえど初めましての人ばかり、祖母にとっては近所に住んでいても十数年ぶりの家族との再会。

 

 

「寂しゅうなるね」

と、みんないう。

「御愁傷様です」ではなく、自身の感情が最初の挨拶だ。

人が亡くなった時の言葉かけも、もしかしたら地域性があるのかもしれない。

みんな、寂しゅうなるねと、震える声で、我慢する声で、飲み込むように、言い聞かすようにいう。

 

 

祖母は去年の暮れに会ったのが最期になったそう。

「もう歳じゃけえね、いつだって、互いにこれが最期かもしれんと思いながら会てるけえ大丈夫」

 

 

祖母が涙ぐんだのは、玄関で挨拶をした時と大伯母に寄り添った時だけだった。

 

 

 

祖母はあんまり泣かない。

びっくりするほど泣かない。

祖父が亡くなった瞬間も強かった。

でも、火葬場では泣いて、叔父が支えていた。

同い年のいとこが祖母に「おばあちゃんも泣くんだね」と気にしてたのが印象的だったそう。

 

 

歳だから、強いわけではないのだろう。

泣かないから、強いというわけでも決してない。

祖母らしい、お別れの仕方なのだろう。

 

 

亡くなった大伯母と対面した時、まだほんのり暖かいと祖母は嬉しそうに言った。

「顔がまだ温いじゃあ」

最期はほとんど食べなくなっていて、だいぶ痩せておられた。

でも、肌が白くて美人だったという大伯母は、眠っている顔も肌が綺麗でびっくりした。

 

 

祖母も肌が綺麗だけど、あれは祖母方の家系の肌なのだろう。

そして、祖母方は美人が多い。

祖母の娘(私の伯母)も美人だし、同い年の従姉妹も悔しいけど美人だし、そのまた娘に至っては本当に天使のように可愛い。

 

 

 

祖母の代理で参列した通夜と葬式は、ほとんど知らない人だらけなのに、涙ぐむ人たちの中で、私も涙ぐんでいた。

涙腺が、年々壊れてきているよう。

 

 

手を合わせるたびに「祖母の孫です」と自己紹介を心の中でする。

 

 

祖母が若い頃、仕事先を紹介してくれたのが大伯母。

祖母の兄弟で一番年上のお姉さんだったのが大伯母。

しっかりした人で、倹約家、保育園の先生もされていた大伯母。

 

 

いつか、会ってみたいと思っていた。

いつか話してみたいと思っていた。

いつかいつかと思うことは、どんどん不可能になってしまう。

 

 

できることは少ないから、無茶はできないけれど。

やれることから逃げるのも、後回しにしてしまうことも、なるべく避けたいと思った。

でも、感情優先な私は、祖母をすぐに会いに連れて行かなかったことを後悔しまくっている。

だからというわけではないけれど、長時間座れない祖母に代わって、通夜と葬式に参加した。

 

 

そして次の日早朝、今度は従叔父(じゅうしゅくふ、親のいとこ)が亡くなった。

祖母は、会いに行かないとなあと前日に思い立っており、その矢先だったらしい。

私もその日は祖母の悲鳴で目が覚めた。

 

 

 

 

2歳くらいのときに、少しだけ預かったことがある方だったらしい。

田舎独特の子育てで、何かあれば親戚が助け合い、子育てもし合っていた。

 

 

「ママァちよく言いよった。寂しかったんじゃろうのぉ。それがマンマちいうて聞けて、ご飯ち思ってね、かわいそうなことぉしたのぉ」

ママと、泣いている子の拙い言葉が、「マンマ」という赤ちゃん言葉のご飯を指しているのだと思ってご飯をあげたりあやしたりしていたと、楽しそうに幸せそうに祖母は思い出を話してくれた。

出発までの時間、ブラックベリーを摘みながら話してくれる祖母の背中が、すごく小さくてこのまましょぼくれて消えちゃうんじゃないかと思った。

 

 

 

 

 

 

 

そして、朝はやっぱり気丈に振る舞っていただけだったようで。

最後に一目会うために、自宅に行ったとき、私は初めて大声で泣く祖母を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「赤ちゃんみてぇな、きれぇ手ぇしとった」

従叔父にすがりついて泣いた祖母は、帰りの車の中でそう言った。

我が子のように思っていたのかもしれない、とも。

 

 

 

 

 

これからたくさんの、泣く祖母も見ていくんだろうし、

最後は多分、あの人を囲って泣く親戚を見るんだろう。

 

目をしっかり見開いて、見ていこうと思った。

別に大した人間じゃあないけれど、従甥や従姪にいつか語るのは多分私だ。

 

 

 

 

そして、悲しくとも時間は過ぎてゆく。

でも多分、それは悲しいだけでもけしてない。

 

 

 

 

大雨だった今日、従姉妹から連絡があった。

3人目を妊娠している同い年の従姉妹。

今日性別がわかったそうで、男の子だったそう。

本人は上2人が女の子だったから、どうしようと言っていたけれど。

 

数日続いて悲しい報せばかりだった祖母に、今日は嬉しい報せができた。

 

久々に、笑っている祖母がいた。

何かを諦めている顔じゃなくて、心のそこから嬉しそうなワクワクしている笑顔。

それは、亡くなった祖父が入院しているときに時々見せる顔と一緒だった。

 

 

 

長く生きている分、祖母はたくさんの人の最期を看取っている。

でも、長く生きているだけ、新しい命もまだまだたくさんその腕に抱けるんだ。