日常99 祖母と靴
ご機嫌がいいとき悪いときって
普通にたくさんあると、孫は思っている。
でも、今年の夏。
もしかしたら老化の一つなのかなと、思うことがあった。
例えば、本当に時々だけど、時系列がおかしくなる。
本当に時々ね。
祖母の話すことが、それはいつのことなんだろうって孫が思ってしまうことがある。
孫が絶対知らないことを、孫と一緒に経験したように語ったり。
明らかに数年前だったことを、つい先日だったことのように語る時がある。
本当に時々ね。
例えば、聞こえてくるものが、時々変に聞こえてる。
救急車の音を猫が鳴いてるとか。
誰かがきたと思ったら、誰もいなかった、おかしいなあってあとで教えてくれる。
本当に時々ね。
ほかにも、電気の消し忘れや水道の出しっぱが増える。
でもこれって歳関係なく、ちょっと疲れてるときとか、ちょっと気を抜いたとき、本当に時々なことだけれど、やってしまうから、そういうもんかなって思って。
孫はいつも気に留めてなかった。
さすがに、真夏の朝、リビングが冷え切っていて、エアコンが付いていることに気づかず、
「昨晩は寒かった」って言っていたときは、ちょっとびっくりした。
そして、自分の靴を、自分のではないと言ったりする。
「おばあちゃんのだよ」って、孫はとっさに言葉にできなかった。
どう、答えるのが「正しい」のかわからなくて、「そっかあ」なんて、間抜けな返事をしてしまった。
本当に時々ね、祖母の頭のなかが「誰かの所為」でいっぱいになる。
それは、孫だったり、嫁だったり、甥や息子、デイサービスの誰かだったりする。
そうやって、いっぱいになった「誰かの所為」は、少しずつ祖母を苦しめちゃう。
誰も彼も信用できないってなってしまう。
そんな祖母の頭のなかの「誰かの所為」って、きっとオーケストラみたいなんだろうなって思う。
じわじわずっと響いてる。
いろんなパートでいろんな音で、いろんな形で響いてる。
それは、もしかしたら、響いている間は心地よいのかもしれない。
自分がボケてるのかもしれないって自覚するのは、本当に辛いことなんだと思うんだ。
だから、きっと、交響曲第89番「誰かの所為」が流れている間は、それを聞き入っちゃうんだと思う。
聞き入っている間は、めちゃくちゃ気を張っている気配が家中に張り巡らされているんだけど。
でも、そんなすごい交響曲も、ピタッとやむ瞬間がある。
ケアマネさんや、デイサービスの職員さんから指摘されたとき、
祖母の頭のなかのオーケストラはピタッと奏でるのをやめるみたい。
玄関にある靴を、自分のじゃないと言った日。
祖母は、一週間前のデイサービスで誰かが自分の本当の靴を持って行ったんだと言い張った。
でも、この一週間の間に、祖母は別の施設へ行っていた。
もちろん孫も毎日玄関やデイサービスに出る祖母を見ているんだから、一週間も気づかなかったってことは流石にないだろうって思った。
でも、頑なな祖母は、その靴を履かずに、別の靴を履いて迎えの車に乗り込んだ。
帰宅後の祖母は、ちょっと恥ずかしそうに言った。
「わしゃあ、おかしくなりよるわあ」
靴にちゃんと、名前が書いてあったという。
それを指摘したくれたのは、デイサービスの職員さん。
自分の認知がちょっと歪んできたなと、自覚するきっかけが、
祖母にとっては職員さんみたい。
そんなとき、祖母の頭のなかの交響曲第89番「誰かの所為」は響かなくなる。
そして、その瞬間誰のことも疑わないから、ちょっと気楽になるみたい。
祖母の頭のなかのオーケストラは、今どのくらい響いているんだろう。
今日は、どんな音が奏でられているんだろう。
それとも、響かせていない日なのかな。
孫は、それを否定しないってことしか、日々できないのだけれど。
祖母が自分の意思でオーケストラを指揮ができる時間ができるだけ長いといいなと思う。
そうすれば、「誰かの所為」じゃなくて、「たまたましょうがないでしょう」って曲目になってくれる時間が増えるから。