日常42 祖母と無言で語る手のひら
受け取り方次第、と、時々祖母はいう。
悲しいこと、辛いことをそのまま受け入れるというより、それらのいい面を……云々
なんてちょっと高尚じみたお説教。
たしかに、元気のいいときの祖母はびっくりするほど柔軟な考え方を持っている。
「しょぼくれんの。考えたって仕方がない。ポジティブにいこう」
そう言ってとても陽気になる。
でも、元気のないときは、相変わらず「もたいまさこさん」の顔でいう。
「ダメになったもんだ、歳だから、ボケたから、おかしくなってる、指が治らなかった、きこえない」
この繰り返し。
機嫌の良い日があれば、調子が狂っているようなときもある。
テンションが高い日もあるし、この世の終わりのような表情で電気もつけずに座っている日だってもちろんあるし、
人に何を言われても悪く思わない日だって、些細な一言で最悪なことしか想像できない日だってある。
88歳の祖母もそうなんだもの。
孫だって同じ、良い日もあれば最悪な日もある。
年をとっていようとなかろうと、結局同じ。
どんなにすごくてもえらくても、何十年も生きていようと、
皮膚が裂ければ痛くって落ち込むし、身近な人が死ねば悲しいから泣いてへこたれてる。
だから、時々祖母から出てくる高尚っぽいお言葉は、
なんというか、祖母には申し訳がないけれど、ありがたいお言葉には聞こえてこないのが孫の本音。
だけど、その時その時の自分の気持ちを、祖母は絶対否定しない。
「こんなことを思ってはダメだ」なんて、その瞬間は絶対言わない。
忘れてるだけかもしれないけど。
いつ何を思ったとしても、自分のその瞬間の感情は否定しない。
でも、次の日には違うことを言っているのが通常運転。
「手がいたあてたまらんのよ。もう手術なんて受けるんじゃなかったわ」
と、言っていた次の日には。
「まだ二本(指が)元気に動いてくれよんじゃけえねえ。90近くも生きとりゃあ、ここまで動けば満点じゃあ」
なんて、都合のいいことを言っている。
祖母には悪いが、祖母の有難い教訓のお説教よりも、祖母の調子が悪い時とか機嫌の悪いときの祖母の祖母自身への姿勢の方が、孫にはずっとぐっとくる。
その瞬間の自分の気持ちは、誰かに左右されて決めるものではない。
それは、もしかしたら一瞬後の自分自身にだって当てはまるのかもしれない。
その瞬間、自分の中に出てきた感情を、無視しない。
それはなんだか、潔くっていいなと思った。
すごく「今」を生きているような、ここにちゃんといるような、そんな風に見えた。
そうしたら、日々、変わっていく祖母の言葉を笑ってハイハイと頷けるようになった。
相手は88歳のおばばなのだ。
機嫌の良し悪しが人生を左右するのではないことは、その手が語っているような気がする。