おばばと暮らせば

瀬戸内海海域の中山間部に住む、90歳のおばばと孫の暮らし。おばばの言葉や思い出が面白すぎたので記録取っていくことにしました。

日常15 おカラスさんのこと vol.2

 

本日も趣味一色な内容です。

ご興味のある方はどうぞお付き合いください。

 

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水汲みは家の前の水路から。

 

 

 

 

 

 

 

「カラスへお供えもの、私もしよったで」

という祖母の一言から、私のカントリーライフがスタートしていたと言っても過言ではないのですが、この烏(もしくは何かしらの動物)へ供物をして、その結果に意味を見出す行為を、専門用語で「烏勧請」といいます。

 

祖母の方言で言っちゃうと、「烏さんここ来んちゃいな」って意味です。

標準語だと、「烏さん、おいでくださいな」って意味です。

 

こいこい烏と自ら呼んじゃう行為なのですが、大きく簡単に分けてしまうと3系統あります。

 

1つは神社仏閣という大きな組織の中で行われるもの。前回お話しした厳島神社のカラスさんはここに入ります。

 

2つ目は町や村全体で行うもの。祖母の話していたお葬式のようなものをいいます。町やら村全体が共通認識として持っていた行為で、宗教とかよりも呪いに近いのかもしれません。小学校のクラスで流行った消しゴムに好きな人の名前書いて見つからずに使い切ったら両想いになるのと同じ…かもしれない。

 

3つ目は家の単位で行われているもの。これはその家の中で行われるもので、かつ規則も家によって異なります。さらに結果の見出し方も家々によって様々です。多くの場合、年中行事の行為のひとつとされていました。お年玉をもらうとか、年越しそばを食べるとか、それと同じ感覚…かもしれない。

 

祖母がバリバリに現役だった時代には、必要とされていた行為が、祖母がヨボヨボになった現代においてそれは必要なくなっているものも多い。

その一つが「烏勧請」といった民俗行為なのかもしれません。

 

それを追いかけて何になるんだと、私自身よく問答していました。

ぶっちゃけ、祖母自身からよく言われます。

「そがあな昔んこと、聞いてどうするんじゃ。意味ももうなぁのに」

と、ボロクソ。

 

 

ちょっとカッコつけた言い方をしてもいいのなら、今生きている人が生き良いようにいてほしくて伝承を追いかけています。

 

 

習俗とか、文化とか、そういうものってリアルな話、お金と時間が膨大にかかります。

つまり、そんなに楽なもんじゃあない。

現代社会って、そんな暇じゃあない。

田舎でめちゃくちゃスロー生活、早々に隠居しているような私でも忙しさは覚えていますよ、一応。

でも、その行為や文化を生んだのは、やっぱりそれがある方が「生きやすかった」からだと思うんです。

じゃなくちゃそんなもの出てくるはずがない。

祭祀や行事は、基本的に祈りであり、願いです。

国家安寧、豊作祈願なんて大きなものだって、根本を見ていけば結局は生き良いようにという気持ちです。

個人的なことだって同じこと。

家族が無事でありますように、彼氏ができますように、試験に受かりますように。死んだ人があんまり苦しくありませんように。

ね、生き良いようにと願う行為そのもの。

 

でも、それは、絶対に何が何でも「残さなくちゃいけないもの」というのとも、私は違うと思うのです。

もちろん、厳島神社の御鳥喰神事を残していっていただきたいし、昔のものが単純に好きだから、できる限り残すことに、できることなら私だって微力だとは思うけど尽力したい。

 

個人の力は、本当に小さい。

だから誰かに強いるものではけしてない。

 

残すこと、という意識になってしまった時点で、もうそれは生活のための祈りの行為ではなくなっている。

そうなると、それは「生き良いためにするもの」ではなくなっているような気がするんです。

だから文化って、きっと誰かがどこかで頑張ってくれているから残っているものになる。

 

それでも、いつかの誰かが願った行為をそう易々と手放せないのも現実。

だから、記録を残すということに意味があるんじゃないかと思っています。

今生きている人が生き良いようにするために、野辺送りがなくなったということもひとつの方法なのではないかと思うのです。

もちろんその逆も然り。

神社さん、お寺さん、あるいは町の人たちで、烏勧請を存続させることも「生きよい姿」だと思うのです。

 

これは本当に私個人のつぶやきで、誰かに強制するものでも、何かに勧誘する意図ももちろんありません。(そもそも私何にも属してないし)

 

ただ、習俗って、やっぱりいろんな考えのもと出来上がっているものだから、本当に簡単にやるやらないじゃないだろうし、祖母みたいに気づけば時代によって、やっていたりやらなかったりしているよ、ぐらい軽いものもあると思います。

 

いつかの誰かが残してくれたものは、もしかしたら、今じゃなくて未来の誰かにとって必要になるものかもしれない。

だから、記録するということも、一種の願いだと私は思っています。

 

一時期、古文書に触れる仕事をさせていただく機会がありました。

国宝級とか歴史が変わるような仕事ではないし、全くといっていいほど表舞台に出ることのない資料たちだったけれど、それらを残していくことは、過去と未来を文字通り繋げることだと思います。

目に見えてわかりやすい事柄ではないけれど、見えないからこそ大事にしたい。

見えないからってわかりにくいからって、おざなりにするのはなんだかすごく勿体無い。

 

 

かつて生きていた人たちが作った日常が、今文化と言われています。

今、生きている人が生き良いようにと願った行為が、未来には文化と呼ばれるようになるんです。

 

繰り返しますが、本当にこれは私個人のつぶやきです。

誰かに強制するものでも、させれているものでもありません。

何かに勧誘する意図もありません。

(何かの組織に入ってるとかないし)

 

 

 

楽しくないってつまらない。

つまらないって、それって一番生きにくい。

今生きている人が生き良いように、楽しいように、できればあんまり悲しくないように。

そうやって昔の人が祈ってきたから今がある。

多分、今も誰かが、未来の誰かのために祈ってる。

 

 

 

こういう気持ちで日々、ジジババの話を聞いています。

 

まあ、一番は単純に古いものが好きってだけなのかもしれないけど。

 

 

本日も長文、失礼いたしました。